東京旅行二日目(9)。ネットカフェを探して。新宿西口から歌舞伎町、博多風龍のラーメン
三軒茶屋から新宿にやって参りました。
前日に続き、本日も新宿区で一泊する予定であります。
もう夕方ですが、新宿散策しましょう。
その一方、私は端末のバッテリを充電できる場所も探しています。
新宿ぐらいの大都市になれば、ネットカフェのひとつやふたつ、そこいらじゅうにあることでしょう。
オダキュウオダキュウ。
凄い人の往来です。
京王新宿駅前です。
ケイオウケイオウ。
ここも凄い人の往来です。
新宿西口には大阪でいう日本橋のような電気屋店街もあるのですが、不思議とネットカフェが見当たりません。
まるでネットカフェに避けられているかのような気持ちです。
被害妄想に駆られ始めました。
このビルは、以前に新宿に来たときにも見た覚えがあります。
損保ジャパンのビルですな。
初めて見るこのビルは、むやみに大きくて驚いたのですけれど、現地の案内地図によると、東京モード学園の校舎だということでした。
モード学園、こんな高層ビルを独力で建ててしまうなんて、よほど儲かっているのでしょう。
ファッションとデザインを教える学校の校舎だけあって、見た目の綺麗なビルですね。
西新宿一丁目の交差点。
たぶん初めて来た場所なのに、この歩道橋とビル群の並びに、妙に既視感があるなーと思いまして。
よくよく考えたんですけれど、最近遊んだ『JET SET RADIO』というテレビゲームにこの西新宿の街一帯を模した街並み出てきてたんですね。
それを思い出して、じわじわと興奮してきました。
私、テレビゲーム等のロケ地に自分が実際に立ち会っていることに、喜んでしまえるたちなのです。
普段テレビゲームをしない人には、よくわからない感覚だろうと思います。
東京の街はテレビドラマ等でもロケ地になることが多くて、そこいらに既視感を呼び起こす要素があるんですね。
ネットカフェを探していて、とうとう歌舞伎町にまでやって来てしまいました。
本日の宿が、この歌舞伎町内にあるカプセルホテルを予約しているのです。
私のような東京に疎い者からすると、歌舞伎町というと若干治安に不安のある危険地帯だという認識です。
その界隈に宿を取ったのも、限られた予算のためでした。
実際に歩いて見ると治安が悪いというほどではないにしろ、声をかけて来る水商売の店の客引きの人たちがとても多くて、辟易しました。
じっくり歩いてみよう、という気になれません。
外国人観光客にも知られた「ロボットレストラン」もあったのですが。
立ち止まって写真を撮ることもためらわれます。
街頭のスピーカーから「新宿区では路上での客引きは禁止です」などと放送が流れているのですが、客引きの人たちはお構いなし。
それらの放送はあくまで歩行者への注意喚起に留まっているのでした。
ところで、ネットカフェと本日の宿の場所とを探してさ迷う私に、ある客引きの若い男性が「何系のお店をお探しですか」と尋ねてきたので、私は無視したのです。
何系と言えば、宿系のお店を探している最中です。
すると男性は無視して行く私の背中に「旅ですか」と妙な哀愁のある声をかけてきたので、思わず立ち止まって返事をしてしまうところでした。
地方から上京してきて、この歌舞伎町に腰をすえて苦労しながら頑張っている人なのではないか、と相手側の背景を勘繰ってしまったのです。
しかしこの大都会で、袖触れ合う誰彼なしに関わってはいられません。
私は私の事情で、ネットカフェを探します。
歌舞伎町で、ようやく見つけたネットカフェ。
ナイトパック12時間の滞在料金が、今夜泊まる予定のカプセルホテルの一泊料金よりも安かったので、「ここにすればよかったかな…」と思ってしまいました。
とりあえず30分ほど、端末とバッテリ電池の充電ついでにネットで新宿界隈の観光情報等を調べて過ごしました。
その後、件のカプセルホテルの所在地も確認がとれて、ひと安心しました。
チェックインの時間まで間があるので、しばらく周辺を歩いてみます。
新宿ゴールデン街っていうと、俳優さんか作家さんがよく飲み歩いているようなイメージですね…。
しかしまだ宵の口だからか、飲み歩く人の姿も少ないですね。
手前のお店の軒先に、大阪の通天閣の守護神としてお馴染みのビリケンさんの姿がありますが、大阪がらみのお店ですかね。
「どんがらがっしゃん」ってお店だそうです。
やらかした感じの店名ですね。
提灯のたくさん釣り下がる神社境内に迷い込み、お参りしました。
ここ、「酉の市」で有名な花園神社という神社で、ちょうど私はその酉の市の日の前夜に訪れたわけなのです。
酉の市では、昔ながらの見世物小屋なども並ぶのだそうです。
準備中の前夜に来てしまいましたが、祭りの前の静かな、それでいて静かな喜びと緊張感に満ちた空気も悪くないですね。
宿にチェックインする前に、夕食を済ませていきましょう。
新宿に来たときから、目をつけていたお店がありました。
黄色のネオン看板が特徴のラーメン店、博多風龍です。
またテレビゲームの話になりますが、『真・女神転生Ⅳ』という東京を舞台にした作品の中で新宿の街が再現されていて、その中でこの黄色の博多風龍を模したお店が街並の一部として出てくるのです。
それを覚えていたので、新宿に来てこの博多風龍を見つけて、「このお店、実在したのか!」と驚いたのでした。
それで、夕食には博多風龍でラーメンを食べると決めていたのです。
実際は大阪にも進出していて、すでに何店舗かお店があるぐらいなのですが。
あくまで私のゲーム脳の内部では、博多風龍は新宿を代表するグルメスポットなわけです。
入ってみましょう。
博多風龍の新宿東口店、内部はスペースが限られていて、カウンタだけのお店になっております。
店員さんは外国の方が多くて、国際都市東京の一端を垣間見せていました。
店内は順番を待つお客で混んでいて、熱気が凄いです。
ともかく入口の自販機で食券を買いましょう。
10分ほど待って、私もカウンタに座ることができました。
とんこつラーメンセットをいただきます。
とんこつラーメンと明太子ご飯の組み合わせです。
あわせて730円でした。
とんこつラーメン単品だと、580円です。
さらに、博多風龍のお店では、ラーメンの替え玉のおかわりが2玉まで無料なのです。
サービス心が旺盛なのですな。
見るからに濃厚、クリーミーなスープなのでした。
味わってみても濃厚、美味しくいただきました。
チャーシューもごつごつしていて素敵。
麺は博多の細麺、当然、堅さはお好みで選べます。
私は固め、あとおかわりの2玉もバリカタと固めでお願いしました。
結局ラーメン3玉と明太子ご飯までたいらげてしまいました。
おいしゅうございました。
おなかいっぱいになったので、今夜はよく眠れると思います。
歌舞伎町で、人生初のカプセルホテル。
閉塞感はあまり感じず、思ったよりも違和感なく眠れる空間でした。
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東京旅行二日目(8)。三軒茶屋で日高屋のお昼、キャロットタワーの眺望。バッテリがもうありません
三軒茶屋に戻ってきて、お昼をかなりまわったところです。
もう昼食にしましょう。
野郎ラーメンも美味しそうで気にはなるのですが、かなり前から一度入ってみたいと思っていた、日高屋の方に軍配が上がりました。
セットメニューがとてもお値打ち価格でリーズナブル。
関西でいうところの餃子の王将のようなお店か?と思っていましたが、王将よりも敷居の低いお店だと思います。
中華そばと餃子のセットにしました。
590円でした。
餃子は餡がたっぷり入っていてもちもち食感、皮はさくさくに仕上がっています。
歩くことの多い旅で、ニンニク成分は大事!
美味しい餃子がいただけると疲れも取れます。
そしてこの中華そばがですね…。
どこか懐かしい、でも癖になるような旨味のあるスープと歯応えしっかり中華麺で、美味しかったのです。
懐かしくて美味しい中華そば、こういう一品を味わえるのはかなり嬉しいと重います。
料理のお値段も全体的に抑え目で、日高屋、家の近所にお店があれば通いたいぐらいです。
でも大阪に進出されるとありがたみが薄れてしまうので、来て欲しくないような…。
複雑な気持ちです。
ごちそうさまでした。
お店の道路向かいのスペースで北海道フェアが開かれていました。
ちょっとのぞいてきましたけれど、私のお小遣いで買って買い食いできるようなものはなかったので、ひやかしただけでした。
昼食を済ませて、三軒茶屋にまだ留まっていたい気持ちが強いです。
ランドマークのキャロットタワーに入ってみようと思いました。
最上階が、展望フロアになっているのですね。
登ってみました。
展望フロアのうちレストランになっているスペースはのぞいて、無料で入場することができます。
レストラン部分は、わりと高級なお料理を提供するお店の雰囲気。
都心の夜景を眺めながらの食事なんてよさそうです。
ただ庶民の私には近寄りがたいので、無料で楽しめる風景を見ましょう。
おそらく西の方角でしょうか、遠くに山並みが見えます。
背の高いビルも少ないですね。
今いるところが大都会の最果てなのだ、という感慨がわきます。
これは東方面を眺めたもの、つまり写真奥が渋谷ですね。
山並みの代わりに、途切れることのない高層ビル群が並んでいます。
今いるところが大都会の始まりなのだ、という感慨がわきます。
何年も前に、初めて東京タワーと新宿都庁の展望フロアに上ったときの気持ちを思い出しました。
あれはテレビゲームの『ペルソナ5』にも登場するビル屋上のバッティングセンターですな。
道理で、歩いてて硬球を打つ音が聞こえてくると思いました。
写真を撮っていたらカメラに使っている端末のバッテリがなくなってきたので、界隈のセヴンイレヴンで充電用バッテリを購入しました。
そうするとキャンペーンのくじ引きを引かせてもらえて、裁縫セットとグミ菓子が当たりました。
儲けました。
でも、充電用バッテリは使用前にまずどこかで充電しないといけないそうです。
端末のバッテリが無くなってきた急場に購入しても、間に合いません。
本日泊まる宿で充電すればいいのですけれど、まだ夜まで観光する時間が残っていますので、カメラが使えないのは困るのです。
ネットカフェかどこかで端末と充電バッテリ共々充電しないといけません。
路地裏から首都高の高架下に出てくるこの小道も『ペルソナ5』に出てくるお馴染みの風景でした。
バッテリに不安のある私は、そろそろ三軒茶屋をおいとまする決心を固めました。
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東京旅行二日目(7)。世田谷八幡宮と太子堂八幡神社。河内源氏、源義家の足跡
豪徳寺へのお参りの後、近くにある東急世田谷線の宮の坂駅から電車に乗って、再び三軒茶屋方面に戻ることにします。
八幡宮というと、武家の河内源氏の氏神である八幡神を祀っています。
同じく河内源氏の流れを汲む足利氏に縁のある土地にも、よく八幡宮のお宮がありますね。
世田谷界隈はかつて足利氏の支流の世田谷吉良氏が治める土地だったので、それでここにも八幡宮が創建されたのだろう、と私は思ったのですね。
しかし世田谷八幡宮の敷地内にあった案内板を読むと、予想とは少し違いました。
創建は世田谷吉良氏が当地に来るよりももっと遙か以前の平安時代後期のことで、「後三年の役」で奥州の清原氏を攻めた河内源氏の源義家(みなもとのよしいえ)が奥州からの帰途、この地に勧請したものだということでした。
源義家は通称が「八幡太郎義家」と言われ、京都の石清水八幡宮で元服した経緯があり、氏神である八幡神への崇敬が篤かったのですね。
世田谷の地に八幡宮を勧請したのも、奥州で武運に恵まれたことを八幡神に感謝してのことだったようです。
後の室町時代、当地を治めることになった世田谷吉良氏によって、世田谷八幡宮の社殿は修復されて整えられたということです。
奥州で熾烈な戦を勝ち抜いた八幡太郎義家と、その義家の後裔であり奥州管領として奥州を治めていたこともある世田谷吉良氏の一族の足跡が、世田谷八幡宮で重なります。
深い因縁を感じました。
私も自分の武運を祈願しました。
私の足跡も河内源氏と重なりました。
次はあなたの番です。
宮の坂駅の駅舎に隣接して、かつて使われていた車両が展示されています。
中に入ることもできました。
この車両は世田谷線を走った後、江ノ島電鉄で「江ノ電」として走ってきた歴史があるのですって。
江ノ電になって、鶴岡八幡宮がある武家の古都、鎌倉の海側を走った後にまた世田谷八幡宮の前に帰ってきたのですね。
八幡宮に縁の深い車両ですね。
そういえば世田谷八幡宮は源義家が奥州からの帰途に世田谷に滞在している間に創建したということですから、義家が鎌倉に戻った後に創建した鶴岡八幡宮よりも少しばかり歴史が古い…と言えそうです。
世田谷八幡宮側の由緒を重んじるならそう解釈できる、ということですね。
宮の坂駅でしばらく待って、やってきた三軒茶屋駅行きの電車に乗り込みました。
ところで私、三軒茶屋付近にある「太子堂」という地名が気になっていまして。
地名で太子と言うと聖徳太子に縁のある場所を指すことが多いですから、近辺に太子堂という聖徳太子を祀ったお堂があるんじゃないか、とそう思ったのです。
私は聖徳太子に身近な南大阪から来ていまして、東京で聖徳太子に関わりのある場所があるなら見ておきたかったんですね。
手持ちの地図には「太子堂八幡神社」なる場所が載っていて、もしかしたらそこに太子堂があるやもしれぬ、と。
そう思い、その最寄りの西太子堂駅で途中下車しました。
三軒茶屋駅のすぐお隣の駅です。
このあたりの住宅街も味わいがありますねえ。
境内を探しましたが、太子堂なるお堂は見つからずでした。
私の早とちりでした。
そこは残念ですが、せっかくなのでお参りしていきます。
太子堂八幡神社には、源義家が「前九年の役」で奥州に向かう途中に当地にあった神社で休憩したという伝承が残っているそうです。
もともとは土地の神様を祀る神社だったようですが、源義家が関わる由緒によって、八幡神を祀るようになったのですね。
「前九年の役」は「後三年の役」よりも以前に源義家が奥州で戦った戦ですから、世田谷八幡宮よりもさらに由緒の古いお社ということになりますか。
太子堂八幡神社と世田谷八幡宮の伝承から想像するに、おそらく世田谷という土地は関東から奥州に向かう途上にあり、鎌倉と奥州とを行き来する河内源氏にとっては古くから馴染みの深い場所だったのでしょう。
そのように思いました。
室町時代に世田谷は河内源氏の後裔にあたる世田谷吉良氏の統治するところとなって八幡神を祀るお社が整備され、後世に残ったのですね。
河内源氏の歴史と結びついた、世田谷という土地の個性を感じます。
西太子堂界隈から三軒茶屋まで一駅なので、散策がてら歩いて戻ります。
背の高いビルが少なく、住宅地の広がる近隣で、三軒茶屋のキャロットタワーってよく目立つランドマークになっているんですね。
自分の中で、キャロットタワーに対しての親しみが増しているのを感じます。
ちなみに太子堂の由来になった場所ですが、後で知ったところによると、三軒茶屋から茶沢通りをずっと北に進んだ先に円泉寺という寺院があって、その境内に太子堂というお堂があるんだそうです。
ここが地名の太子堂の由来で、おそらくは、聖徳太子に縁のあるお寺なのでしょうね。
今回の旅ではお参りできなかったですが、次に三軒茶屋に来たら円泉寺にも足を運んでみたいと思います。
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東京旅行二日目(6)。井伊家の菩提寺、豪徳寺。見どころいろいろ
世田谷城址公園から住宅地を10分も歩かないうちに、有名なお寺に着きます。
大谿山豪徳寺です。
豪徳寺ってテレビの旅番組街歩き番組等で今まで何度か見ていました。
私は有名なお寺だと思っているんですが、どうなのでしょうね。
お参りしていきましょう。
旅の前に下調べしてきたところでは、この豪徳寺も世田谷吉良氏によって創建された寺院なのですね。
そして江戸時代以降は、世田谷を所領とした彦根藩主井伊氏の菩提寺になっているんです。
大河ドラマの題材が井伊氏を取り上げたものだったこともあってか、若い人たちを含めた参拝客でにぎわっています。
お寺の境内の雰囲気自体も、緑豊かで静かで落ち着く雰囲気なのですね。
11月の旅で、紅葉が拝めたのでした。
三重の塔もあるんです。
ここから先は、井伊家の墓所になっています。
2代彦根藩主井伊直孝(いいなおたか)以降の藩主たちが眠っています。
中には幕末の「安政の大獄」を起こした張本人、幕府大老の井伊直弼(いいなおすけ)の墓もありました。
安政の大獄の後、水戸浪人たちによって桜田門外で襲撃され、倒れた井伊直弼。
豪徳寺に葬られていたのですね。
安政の大獄の犠牲になった吉田松陰(よしだしょういん)と井伊直弼、共に世田谷区内の近い位置で眠っているのは、何か因縁を感じます。
今年は日々のことに気を取られて紅葉には無頓着でしたが、思わぬところで赤々した彩りを楽しむことができました。
豪徳寺は招き猫が名物でもあるんですね。
どうも豪徳寺が招き猫の発祥地らしいです。
かつて、雨降りの日に井伊直孝公を豪徳寺境内に導いた猫が由来なのですって。
ありがたいことですな。
招き猫を購入して奉納することができるようですが、私は奉納をしないで、他人様が納めた猫たちを拝むだけに留めました。
これで何がしかの御利益に預かれまいか、という下心でした。
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東京旅行二日目(5)。世田谷区桜の勝光院から世田谷城址公園へ。世田谷吉良氏の足跡
いったん東急世田谷線の上町駅まで歩いた後、西の世田谷区桜一丁目界隈を目指します。
桜一丁目、落ち着いた住宅街なんですね。
ところが、この中に私を引き寄せる場所があります。
見えてきました。
曹洞宗の寺院、延命山勝光院があるのです。
延命山って心惹かれる山号ですね。
なぜこのお寺に来たかというと、勝光院は世田谷吉良氏の菩提寺なのです。
南北朝時代に吉良氏によって創建された寺院です。
後の戦国時代には当時の吉良氏当主吉良氏朝(きらうじとも)によって再興され、その際それまで臨済宗だった宗旨を曹洞宗に替えました。
ちなみに吉良氏朝、北条幻庵(ほうじょうげんあん)が「北条幻庵覚書」を送った、後北条家の姫君が嫁いだ相手でもあります。
境内にある梵鐘は、江戸時代の元禄期に加藤鋳物師(かとういもじ)の一人、加藤吉高の手で製作されたものだそうです。
加藤鋳物師というのは、かつて八王子あたりに本拠を置いて三多摩地方を中心に活躍した鋳物職人の名称だそうです。
おそらく加藤鋳物師には加藤姓の人が多かったのでしょうね。
本堂に参拝の後、境内にある吉良氏一族の墓所にお参りしました。
ここには、吉良氏朝の孫にあたる吉良義祇以降の一族が眠っているということです。
かつて広大な奥州を支配した奥州管領の末裔たちの霊に、手を合わせました。
勝光院へのお参りを済ませて、上町駅の駅前に戻ります。
上町駅から北に、今度は世田谷城跡を訪ねていくことにしました。
城山通りの向こうに城跡の木々が見えて参りました。
ここですな。
世田谷吉良氏の城、世田谷城のお城跡です。
今は世田谷城址公園になっています。
14世紀後半に吉良治家が居住したことに始まり、戦国時代に小田原攻めで後北条氏が滅びて廃城になるまで、世田谷城は吉良氏のお城でした。
郭跡の高台の上から、堀跡を見下ろします。
現在の堀跡は浅いので、もはやお城としての機能は期待できません。
これからここに篭城しようとしても難しいです。
私も篭城はあきらめました。
今でも郭跡、堀跡、土塁跡の残る世田谷城址公園です。
閑静な住宅地の中にこうした場所があって、異質な空気を醸し出しています。
ご覧の通り、お堀はほとんど無いくらいの深さです。
かつてはもっと深くてお城としての防御力も高かった、かもしれません。
高台になったお城の郭跡の上にテントを張って一晩か二晩キャンプしたら楽しそうですね。
でも周囲が住宅地であるだけに、野宿したり火をおこしたりなんかしたらすぐ通報されてしまいそうです。
手前勝手な篭城はかないません。
吉良氏の時代には、城番の武士たちが寝泊りしてお城の警護をしていたことでしょう。
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東京旅行二日目(4)。ボロ市通り沿いの世田谷代官屋敷。区立郷土資料館で北条幻庵覚書も拝見
東急世田谷線世田谷駅から歩いて参ります。
世田谷の街は、世田谷代官のお膝元らしいです。
心が引き締まります。
世田谷には代官がいてお城跡があって寺院もあって、見るべき史跡が多いのです。
街路樹の緑が目に嬉しい。
最初の目的地、都史跡の世田谷代官屋敷を目指しております。
お代官様のお膝元から、お代官様ににじり寄って行きます。
代官屋敷は「ボロ市通り」という通り沿いにあるらしいのです。
ボロ市って名称は衝撃的でした。
代官屋敷がありそうな響きではないですね。
ここがボロ市通りだそうです。
特にボロボロした雰囲気もなく、拍子抜けしました。
ボロ市通りで間違いなし。
由来が気になりますね。
ちなみに夏にはこの界隈で「ホタル祭りとサギ草市」って催しもあるそうです。
街中なのに、世田谷でホタルが見られるんですかね。
謎が深い界隈です。
ボロ市通りの正式名称は桜栄会商店街というのですね。
いつでもボロ市通りでは外交上の支障が出ることもあるのでしょう。
ボロ市通りを進んで、代官屋敷の茅葺屋根が見えてまいりました。
表門も茅葺屋根で、立派です。
正門は閉まっていますので、駐車場入口から敷地内に入ります。
母屋の前に立ちました。
この代官屋敷はもともとは、世田谷代官だった大場氏の私邸だったものです。
大場氏は、中世に世田谷の領主だった世田谷吉良氏の重臣を務めていた家柄です。
主の世田谷吉良氏は、戦国時代には関東一円を支配する後北条氏の傘下で、世田谷を治めていました。
豊臣秀吉による小田原攻めで後北条氏が滅ぶと、世田谷吉良氏も世田谷の支配権を失います。
主を失った大場氏は帰農しました。
この大場氏が江戸時代の半ばに至り、世田谷を領有する彦根藩主井伊氏に起用され、代官を勤めるようになったのです。
当初は農家のまま代官職に起用された大場家ですが、後には士分に取り立てられ、幕末まで代々代官の家柄として続きました。
代官に選ばれたということは、大場氏は世田谷でも有力な農家、つまり庄屋か名主と言われる立場だったのでしょう。
代官屋敷はその私邸なので、農家の住宅の風情を残しているのですね。
古民家然としていても、そこは代官屋敷なので、母屋の外には白州跡もあります。
よく時代劇で、下手人が引き立てられてきて膝をつかされ、「面を上げい!」と上から言われるあの場所です。
引き立てられたくないですね。
母屋併設の内蔵の中に、ボロ市の由来について書かれた説明版が掲げられていました。
この文章によると世田谷では戦国時代、この土地を交通の要衝と見た後北条氏によって市が奨励され、商人も集まり繁栄していたそうなのです。
ところが後北条氏滅亡後、関東の中心が遠い小田原から世田谷近郊の江戸に移ると、世田谷の商人たちは江戸に活動拠点を移すようになってしまいました。
もともと世田谷にあった市の規模は縮小し、近在の農家向けの農具を中心に扱う「ボロ市」として存続したそうです。
何か物悲しい話ですけれど、ボロ市の名称は後北条から豊臣、徳川と主が移っていく時代の転換期にあって生まれたものだったのですね。
そしてかつてのボロ市は、今のボロ市通りの辺りに開かれていたのですね。
代官屋敷の母屋がある庭園を通り、敷地の奥に行くと、世田谷区立郷土資料館が建っています。
昭和39年に開館した施設で、「都内最古の公立地域博物館」なのだそうです。
こちらの展示で、世田谷区の歴史について一通り学べます。
また大場氏と、そのもともとの主筋にあたる世田谷吉良氏についての展示も豊富でした。
吉良氏は三河国(現在の愛知県南部)発祥の一族で、室町幕府将軍足利氏の支流にあたります。
この吉良氏の中から、幕府より「奥州管領」という役職を任命されて東北全土を支配した、奥州吉良氏という家柄が生まれました。
この奥州吉良氏が後に奥州の支配権を失い、関東に移住します。
関東で勢力を盛り返し、世田谷に本拠地を定めました。
これが世田谷吉良氏です。
世田谷吉良氏はつまり、奥州吉良氏の後裔にあたるのですね。
戦国時代には政略結婚を通して後北条氏の傘下に入りますが、地域に独立した権力を有していました。
この世田谷吉良氏に関わる史料として「北条幻庵覚書」という古文書が有名で、この世田谷資料館に所蔵、公開されているのです。
北条幻庵覚書は北条幻庵(ほうじょうげんあん)によって記されました。
幻庵は後北条氏の初代当主北条早雲(ほうじょうそううん)の子息にあたります。
父早雲から後北条家最後の当主氏直(うじなお)まで五代の当主に仕えた、当時としてはとても長命な人物です。
彼は一族の長老として、後北条氏の関東支配を長らく支えました。
この幻庵が、後北条氏の姫君が世田谷吉良氏の当主に嫁ぐ際に、覚書として各種の心得えを事細かに書いて送っているのです。
幻庵の人柄を示すと共に、当時の武家のしきたり等もうかがえる、貴重な史料なのですね。
この中世の歴史好き界隈には有名な北条幻庵覚書の現物が公開されていて見学できるのは、嬉しい限りです。
古文書が読めないと内容まではわかりませんけれど、筆跡などから筆者の人柄はしのばれますね。
北条幻庵覚書の達筆な筆跡を眺めて、戦国時代の武家の生活に思いを馳せました。
世田谷代官のお膝元から、このまま近隣にある旧領主世田谷吉良氏の史跡群を目指して、世田谷の散策を続けます。
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東京旅行二日目(3)。松陰神社にお参り。世田谷駅まで歩く
東急世田谷線三軒茶屋駅で電車に乗って数分、四駅目で降りました。
幕末維新の志士たちの精神的支柱だった、吉田松陰(よしだしょういん)。
彼を祀った神社が松陰神社です。
ここから歩いて参りますよ。
松陰神社通り商店街を行きます。
「萩・世田谷 幕末維新祭り」の垂れ幕が商店街にかかっていました。
後から調べたところによると、このお祭りで商店街には山口県の萩市の物産を扱う屋台等が並び、幕末志士と奇兵隊のパレードもあったそうです。
私が来たのは、そのお祭りが終了した後日だったのですね。
お祭りも終わり、人通りはそれなりにあれど落ち着いた界隈です。
松陰神社界隈には松陰を慕って山口県から来た移住者も多いかもしれない、と私は想像しました。
商店街の先に、松陰神社の鳥居が見えてきました。
思ったよりも大きな神社ですね。
境内は通路等も整備されて、綺麗でした。
ちょうど七五三の時期でもあり、正装したお子さんと家族連れが集まって写真撮影でにぎわっています。
それぞれの家族にプロのカメラマンの方たちがついていました。
せっかくの記念写真にラフな姿の旅行者が写りこんでは気の毒なので、こちらはそれなりに気を遣います。
複数のカメラフレームから身をかわすように、空間の隙間を縫いながら境内を散策します。
松下村塾を再現した建物が境内に建っています。
松下村塾を主宰した吉田松陰は、若い長州藩士たちに思想的影響を与え、維新を支えたと言われています。
書物を読むことも大事であり、学んだことを実践することも大事。
儒教の一派、陽明学の教えに沿うような、実践主義を勧める指導方針だったようです。
境内に並ぶ石灯籠も見所のひとつです。
この石灯籠…。
わかりにくいですが、寄進した伊藤博文の名が刻まれているのですね。
山縣有朋、井上馨、桂太郎、乃木希典を始めとして、長州藩関係者の方々寄贈の石灯籠が並びます。
吉田松陰から教えを受け、彼を慕う人が多かったということでしょうね。
吉田松陰は幕府大老井伊直弼(いいなおすけ)主導の安政の大獄で捕縛され、三十歳の若さで刑死します。
松陰を慕う人たちによって、彼は長州藩主毛利氏の所領であったこの土地に改葬されました。
明治時代に入って後、墓所に寄り添う場所に松陰神社が創建されたのです。
国家に反逆して処刑された政治犯が、新しい時代を担う人たちの手によって、今度は英雄となったのですね。
30歳で閉じた短い人生でありながら、生前に多くの長州藩士に影響を与え、維新の原動力となった吉田松陰。
墓前に向かっていると、様々な思いにとらわれます。
自分の人生を、目の前で眠る偉人のものと比べてしまいますね。
松陰先生、と呼びたくなりました。
勇気づけられた思いで、先生の眠る場を後にしました。
悩みを抱えた人は、一度松陰先生のところにお参りに来ると、新たな道が開けるかもしれません。
松陰神社の隣、若林公園の前を通り抜け、東急世田谷線世田谷駅まで歩いていくことにします。
若林公園の先の交差点に面して、国士舘大学のキャンパス群が建っています。
国士舘大学の母体になったのは、大正時代に創立された私塾国士舘です。
この私塾が当初の所在地から創立数年で世田谷の松陰神社の近隣に移転したのは、やはり意図的であったのかな、と思います。
天下に名の聞こえた私塾、松下村塾の主宰者が眠る土地ですものね。
真相はわかりませんけれどね。
こちらは大学図書館のようですね。
モダンな外見の建物です。
国士舘大学の向かいに、世田谷区役所です。
こちらは大学キャンパスに比べると年季の入った建物が前面に出ています。
世田谷区民の生活を支える場所なのですな。
南に歩き続けると世田谷線の線路に行き当たりました。
このまま駅まで西に沿線を行きましょう。
墓地脇のえらい小道を通る必要に迫られました。
世田谷駅のホームが見えて来ましたね。
世田谷線のホームはどこもこじんまりと小規模で、趣きがあります。
世田谷駅に到着しました。
世田谷の名を冠した駅、来てみたかったんですね。
しかしここで電車に乗らず、さらに世田谷駅周辺の散策を続けます。
世田谷駅周辺には、史跡が多いんですよ。
散策が楽しみですね。
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